1月18日(月)晴れ。
年が明けても、コロナの脅威が収まりません。
政府の対策の緩さか、はたまた国民の自覚の甘さか・・!?
過去の緊急事態発出時に比べ、第3波緊急事態の中、主要都市の人出状況は危機感を殆ど感じていないですね。
近所のショッピングセンターでも、従業員に陽性者がでたとの「お知らせ」がありました。厳重な対策を施し済みということですから、荷重に危機感を煽るつもりはありませんが、大変身近な場面でのこと。矢張り、自らの注意を怠らないようにしなければなりません。
モール入り口の告知(↓)
昨日(17日)、コロナ禍で中止になった「町内会・新年親睦会」の代わりに、役員会を開催。新年度に係る懸案事項を協議し、昼食を挟み、あらためて新年の役員交流を図ることができました。裏方の山車(4輌)の記述について、享保2年には既に「三皿町」が登場。享保3年に「花井町」が笠鉾から山車になった。享保17年には、丹下と北浦町の山車が出来上がり、大工の半七から受取ったとあります。
山車4輌の揃い踏みがなったのか、その年、尾張の宗春公が初めて見物にお出ましになったようです。
古来、我が町は東西往来の要衝地として栄えていたことが、記載の古歌から読み取ることができる。
1)いかて我 とゝろをたにもやりてしか 遠く鳴海の うらみかてらに(小野小町)
2)遠くなり 近く鳴海の浜千鳥 鳴音も汐の満干をそしる
(太田道灌)
3)鳴海かた 汐の満干の度毎に 道ふみまよふ浦の旅人
3)鳴海かた 汐の満干の度毎に 道ふみまよふ浦の旅人
(藤原定家)
(↑)は主な三首である。
偶々通りかかった古の歌人が、都から遠く離れた「鳴海潟」の景色に意趣を覚え、心の内を歌に託した。そして今、ここに住む我々の魂にふれる「大昔の鳴海」が蘇る思いがする。(成海古歌集・PDFファイル)←古歌集の抜粋
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