町内には、昔から伝わる津島社と秋葉社の祭祀があります。
今夕はその内の一つの秋葉社に、先日授かってきた御札を納めて
神楽を奉納する行事がありました。
先輩先生を始め、新メンバーの子供たち8名も全員出席。
町内より、役員&班長さんが臨席。そして神楽会父兄の見守る中・・
子供たちは、
秋の祭礼デビュー以来、2度目となる年中行事に臨みました。
笛や太鼓の心地よい響きを、傍らより微笑ましく拝聴。
奉納の神楽三曲とお囃子一曲の内、その一部をYouTubeにしました。
迫力の生演奏を初めて見る班長さん方は、皆、一様にびっくりされていました。
先輩先生の指導にて、
今年5月から始まった週一稽古が、僅か半年余りでしっかり実を結んでいるようです。
(追伸)
昨年のブログに掲載したものですが、
可睡斎と秋葉山信仰について、日本大百科全書(ニッポニカ)の解説を記しておきます。
可睡齋(かすいさい)
静岡県袋井市久能(くのう)にある曹洞(そうとう)宗の寺。
萬松山(ばんしょうざん)と号し、秋葉総本殿とも称される。応永年間(1394~1428)
の僧、恕仲がここに草庵(そうあん)を結んだのが始まりで、一時荒廃したが、
の僧、恕仲がここに草庵(そうあん)を結んだのが始まりで、一時荒廃したが、
5世の法祖大路一遵(たいろいちじゅん)が毘沙門天の霊夢に感じて再建し、
東陽軒と称した。
11世の仙麟等膳(せんりんとうぜん)は、今川家の人質となっていた幼少の徳川家康を
助けたことにより、のちに浜松城主となった家康の厚遇を受け、東海の大僧録司として
助けたことにより、のちに浜松城主となった家康の厚遇を受け、東海の大僧録司として
駿河、遠江、三河、伊豆4か国の諸寺を取り締まる名刹となった。
可睡斎という寺号は、仙麟等膳が浜松に家康を訪れたとき、疲れと老齢のために居眠った
のを見て、家康が「和尚睡(ねむ)る可(べ)し」といたわったことによるといわれる。
のを見て、家康が「和尚睡(ねむ)る可(べ)し」といたわったことによるといわれる。
境内後方にある秋葉総本殿は、もと秋葉寺(静岡県浜松市)にあった三尺坊
威徳大権現を移したもので、俗に秋葉三尺坊、三尺坊大権現といわれ、火防の
霊仏として名高い。12月15日に火防大祭が行われる。
威徳大権現を移したもので、俗に秋葉三尺坊、三尺坊大権現といわれ、火防の
霊仏として名高い。12月15日に火防大祭が行われる。
境内は広く、本堂、僧堂(禅堂)、方丈など多くの伽藍(がらん)を有し、ボタン、サギソウ
など花の名所としても知られる。
など花の名所としても知られる。
秋葉信仰
根本社(秋葉神社)は、
静岡県浜松市天竜区春野(はるの)町の秋葉山頂に鎮座。
静岡県浜松市天竜区春野(はるの)町の秋葉山頂に鎮座。
剣難、水難、火難に霊験あらたかであると『東海道名所図会』に記されている。
とくに火難(火伏せ、防火)信仰は愛宕(あたご)神社と並んで有名。秋葉山は神仏習合に
伴い修験の霊場となったが、修験者の三尺坊は、観音の化身で
火伏せの法に通じた天狗といわれ、越後の国から飛来して秋葉山の鎮守となり、
三尺坊大権現と称して、大登山秋葉寺に祀(まつ)られたという。
1685年(貞享2)には三尺坊大権現を祀ることが流行し、順次各地に送り祀られて
いったが、江戸に入る前に幕府から禁圧された。
伴い修験の霊場となったが、修験者の三尺坊は、観音の化身で
火伏せの法に通じた天狗といわれ、越後の国から飛来して秋葉山の鎮守となり、
三尺坊大権現と称して、大登山秋葉寺に祀(まつ)られたという。
1685年(貞享2)には三尺坊大権現を祀ることが流行し、順次各地に送り祀られて
いったが、江戸に入る前に幕府から禁圧された。
この信仰は中部地方を主として、東海道筋から関東地方にかけて講社を結成する
など庶民と深く結び付いた。
明治初期の神仏分離令で、秋葉神社と改称、独立し、秋葉寺は廃寺となったため三尺坊
の像などを可睡齋(静岡県袋井市の寺)に移したが
現在も根強く信仰されている。
とくに江戸時代は伊勢参宮の途次に参詣されることが多かった。
など庶民と深く結び付いた。
明治初期の神仏分離令で、秋葉神社と改称、独立し、秋葉寺は廃寺となったため三尺坊
の像などを可睡齋(静岡県袋井市の寺)に移したが
現在も根強く信仰されている。
とくに江戸時代は伊勢参宮の途次に参詣されることが多かった。
1 件のコメント:
公会堂があんなに一杯になるのはめずらしいですね!!
今度の23日土曜日、神楽会の忘年会 兼 クリスマス会です。
お越しください~!!
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