12月16日(金)晴れ。
夕刻6時半より、古来火伏の信仰厚い可睡齋のお札納めを開催しました。
毎年12月初旬、町内からの希望を募り役員有志の代参にてお札を授かっています。
その際受けてきた、町内会祭祀の御札を収める行事。
以前から行われている祭事で、今年も神楽会メンバーによりお神楽奉納もありました。
仏事に“神饌”とは妙な感じですが、秋葉山総本殿・可睡齋の由来を調べると、明治初頭の
廃仏毀釈(神仏分離)までは、元々同じ境内で信仰を集めていたとのことにて
その名残りかもしれません。
その名残りかもしれません。
師走の中頃ともなれば、寒さもひとしおだったのですが・・
そんな中、多くの役員及び班長さんに参拝していただきました。
お神楽の太鼓と笛が、師走の宵に厳かに響いていました。
可睡斎と秋葉山信仰について、日本大百科全書(ニッポニカ)の解説を記します。
可睡齋(かすいさい)
静岡県袋井市久能(くのう)にある曹洞(そうとう)宗の寺。
萬松山(ばんしょうざん)と号し、秋葉総本殿とも称される。応永年間(1394~1428)
の僧、恕仲がここに草庵(そうあん)を結んだのが始まりで、一時荒廃したが、
の僧、恕仲がここに草庵(そうあん)を結んだのが始まりで、一時荒廃したが、
5世の法祖大路一遵(たいろいちじゅん)が毘沙門天の霊夢に感じて再建し、
東陽軒と称した。
11世の仙麟等膳(せんりんとうぜん)は、今川家の人質となっていた幼少の徳川家康を
助けたことにより、のちに浜松城主となった家康の厚遇を受け、東海の大僧録司として
助けたことにより、のちに浜松城主となった家康の厚遇を受け、東海の大僧録司として
駿河、遠江、三河、伊豆4か国の諸寺を取り締まる名刹となった。
可睡斎という寺号は、仙麟等膳が浜松に家康を訪れたとき、疲れと老齢のために居眠った
のを見て、家康が「和尚睡(ねむ)る可(べ)し」といたわったことによるといわれる。
のを見て、家康が「和尚睡(ねむ)る可(べ)し」といたわったことによるといわれる。
境内後方にある秋葉総本殿は、もと秋葉寺(静岡県浜松市)にあった三尺坊
威徳大権現を移したもので、俗に秋葉三尺坊、三尺坊大権現といわれ、火防の
霊仏として名高い。12月15日に火防大祭が行われる。
威徳大権現を移したもので、俗に秋葉三尺坊、三尺坊大権現といわれ、火防の
霊仏として名高い。12月15日に火防大祭が行われる。
境内は広く、本堂、僧堂(禅堂)、方丈など多くの伽藍(がらん)を有し、ボタン、サギソウ
など花の名所としても知られる。
など花の名所としても知られる。
秋葉信仰(あきばしんこう)
根本社(秋葉神社)は、
静岡県浜松市天竜区春野(はるの)町の秋葉山頂に鎮座。
静岡県浜松市天竜区春野(はるの)町の秋葉山頂に鎮座。
剣難、水難、火難に霊験あらたかであると『東海道名所図会』に記されている。
とくに火難(火伏せ、防火)信仰は愛宕(あたご)神社と並んで有名。秋葉山は神仏習合に
伴い修験の霊場となったが、修験者の三尺坊は、観音の化身で
火伏せの法に通じた天狗といわれ、越後の国から飛来して秋葉山の鎮守となり、
三尺坊大権現と称して、大登山秋葉寺に祀(まつ)られたという。
1685年(貞享2)には三尺坊大権現を祀ることが流行し、順次各地に送り祀られて
いったが、江戸に入る前に幕府から禁圧された。
伴い修験の霊場となったが、修験者の三尺坊は、観音の化身で
火伏せの法に通じた天狗といわれ、越後の国から飛来して秋葉山の鎮守となり、
三尺坊大権現と称して、大登山秋葉寺に祀(まつ)られたという。
1685年(貞享2)には三尺坊大権現を祀ることが流行し、順次各地に送り祀られて
いったが、江戸に入る前に幕府から禁圧された。
この信仰は中部地方を主として、東海道筋から関東地方にかけて講社を結成する
など庶民と深く結び付いた。
明治初期の神仏分離令で、秋葉神社と改称、独立し、秋葉寺は廃寺となったため三尺坊
の像などを可睡齋(静岡県袋井市の寺)に移したが
現在も根強く信仰されている。
とくに江戸時代は伊勢参宮の途次に参詣されることが多かった。
など庶民と深く結び付いた。
明治初期の神仏分離令で、秋葉神社と改称、独立し、秋葉寺は廃寺となったため三尺坊
の像などを可睡齋(静岡県袋井市の寺)に移したが
現在も根強く信仰されている。
とくに江戸時代は伊勢参宮の途次に参詣されることが多かった。
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